Little bitter


それは、ちょうど休戦中のある日。
城の台所は朝から、女性陣と甘い香りで満ちていた。メレンゲを
かき混ぜている一人の後ろを、クリームの入った器を下から支えた手を
高く掲げ、身体をのけぞらせながらつま先立ちをした一人が恐々と通る。
このように、ちょっとした移動にも苦労させられるほど明らかに定員オーバーの
この窮屈な場所は、しかしながら黄色い声と輝く笑顔に溢れていた。
彼女たちは今、思い思いの菓子を作っている。
こういったことが得意な者も不得意な者もいるが、皆気持ちは一つだった。
確かな愛、ほのかな恋心、親愛…抱く想いの形も様々だが、心に浮かべた
大切なその相手が、最高の笑顔で喜んでくれること―――

もちろんフュリーも、そのような希望を抱いていないわけではない。
だが、それ以上の不安と恐怖が、彼女の表情に暗い影を落としていた。
―――どうしよう…もし、受け取ってもらえなかったら…―――
「どうしたのフュリー?手が止まってるわよ」
エスリンに指摘されて、フュリーははっと我に返る。
「あ、いえ…!なんでもないですすみませんっ!!」
そして慌てて、放置されていた生地を再びこね始めた。
―――あーあ…どうしてこんなことになっちゃったんだろう…―――
手を動かしながらもフュリーは、心の中で大きくため息をついた。

女性が男性に、愛を込めた菓子を贈る。その『愛』は、ほとんどの場合“恋愛”を指し、
さらに贈る菓子は『手づくり』であることが求められる。
そんな特別な日が今日であることは、フュリーも忘れてはいなかった。
なにしろ彼女とて、このイベントに無関心ではいられない“恋する乙女”なのだ。
その上彼女の想う相手は、去年までと違ってすぐ側にいる。
積年の片想いを伝えるのには、千載一遇のチャンスといえるだろう。
だがフュリーには、そんなことを実行に移すつもりは毛頭なかった。
いくら手を伸ばせば届く距離にいようとも、幼い頃から親交がある
馴染みの間柄であろうとも、「彼」との間には見えない壁があった。
「身分」という、高く厚い壁が―――。

だから朝目覚めて、台所に女性たちが集結して菓子作りにいそしんでいる
姿を見て疑問を抱くことはなかったものの(身重のディアドラまでも
加わっていたことには多少面食らったが)そこに自分も混ざる気にはなれず、
槍の鍛錬にでも向かおうときびすを返した。だが…
「フュリー、何をしてるの?貴方も一緒に作らなきゃ駄目じゃない♪」
しっかりとフュリーの腕を掴んだエスリンが、満面の笑みを浮かべていたのだ。
「いえ、その…わたしは、いいんです。あげる相手がいませんから…」
「何言ってるの!女の子は全員参加ッ!!」
エスリンはいつになく強引だった。その妙な気迫にたじろぎ、フュリーは視線を
泳がせたが、その先に一人の少女の姿を捕らえた瞬間、凍りついた。
ラケシス王女と共に真っ白になりながら粉を振るっている、二つに結んだ
長い髪のてっぺんを団子状にまとめた踊り子の……
―――シルヴィアさんも作ってるんだ…!やっぱり、レヴィン様に…―――
フュリーの胸に、チクリと刺すような痛みが走った。
そして気づくと、台所に立っていたのだ…。

いっそのこと失敗してしまえば、あげなくてすむ口実が出来る。
そう思ってわざと適当に作ろうとしたのだが、もとより料理に関しては
姉のマーニャも手放しで誉めるほどの腕を持つ上に、どうしても気持ちが
こもってしまい、結局周囲から「一つ分けて!」とお声がかかるほど
上出来のクッキーが完成してしまったのだった。
小さな袋にそれらを詰め込み、緑色のリボンをかける。とうとう準備が
整ってしまった贈り物を胸元のあたりに掲げたまま、フュリーは
立ち尽くしていた。しばらくそのまま目だけで、作りながら頭に
思い浮かべていた相手……レヴィンの姿を探していたが、
やがてふっとため息をついて、俯く。
―――やっぱり駄目。渡せるはずがない…この気持ちを伝えたところで
どうなるというの?わたしはレヴィン様にお仕えする身なのに…―――
これは自分で食べてしまおう。そう自分に言い聞かせて、
自室として与えられている部屋に戻ろうとした時…
「レヴィ〜ン!はい、これ♪」
聞き覚えのある声と名前に、フュリーの足が凍りついたように動かなくなる。
“嫌、見たくない!!”という心の声とは裏腹に、顔は声のした方向へと
勝手に動いてしまって。
目に飛び込んできた。
シルヴィアが、レヴィンに小さな包みを差し出しているところを。

「―――っ!!」
フュリーは駆け出した。城の廊下に響く自分の足音も耳に入らない。
どこに向かっているのか、自分でも分からない。
頭に、レヴィンが微笑みながら包みを受け取る場面が見てもいないのに浮かび、
それを消し去りたい一心で、走った。
だから、自分の進む方向から人が歩いてきていたことにも気づけなかった。
相手も、普段ならば身をかわすことも出来ただろうが、フュリーのただならぬ
様子に驚き戸惑い、そのまま立ち止まったため思い切り正面から激突される
羽目になってしまったのだった。
「うわっと…!!」
相手は転倒寸前のところで、どうにか体勢を立て直すことに成功する。
「!!」
フュリーはその衝撃でようやく我に返り、顔を上げた。
「あ…ノイッシュさん…!」
「フュリー…一体どう……うわっ、ゴメン!!」
フュリーがぶつかった相手―――ノイッシュは、フュリーを抱きとめるような
形になっていることに気づいて、声を上ずらせながら慌ててフュリーから離れた。
「わ、わたしの方こそごめんなさい…!お怪我はありませんか…?」
周囲が見えなくなるほどに取り乱していたことを、フュリーは心から恥じた。
本当に情けない――湧き上がる自己嫌悪の念に、強く唇をかみ締める。
「いや、わたしは大丈夫だ。それより…どうしたんだ?」
「いいえ…何でもないんです。本当に、ごめんなさい…」
何でもないはずがないだろう。
ノイッシュは、喉まで出かかった言葉を飲み込む。
仮にも優秀な騎士である彼女が、ここまでの前方不注意に陥ったのだ。
それほどの何かが起こったことは明らかだ。
けれど、話したくないのであれば無理に聞き出すわけにはいかない。
さりとて、「そうか」と納得してこのままこの場で別れることも気が引けた。
進退窮まったノイッシュは、沈黙を避けるためになんとか別の話題を探そうと
目を泳がせる。すると、その目にフュリーが手にした小さな包みが飛び込んできた。
「あ、フュリー。それは何だい?」
ノイッシュにしてみれば気を紛らわせようという心遣いだったのだが、
フュリーの表情がますます暗くなったのを見て、フュリーの錯乱の原因を
直撃してしまったことに気づいたのだった。心の中で「しまった!」と
呟き、ノイッシュは慌てて再び別の話題を探しはじめた。
だが、その包みが目の前に差し出されたことによって、中断される。
「ノイッシュさん…これ、食べてください」
「え…」
ノイッシュはしばらく、その包みとフュリーの力ない微笑みを
交互に見比べていた。
「これは…?」
「クッキーです。お口に合うかどうか、分かりませんけど…」
「君が作ったのか?」
「…ええ」
それを聞いて、ノイッシュは思い出した。
そうだ。今日は―――

それで理解できた。詳しいいきさつまでは分からなくとも、
彼女の心を乱したのが誰なのか。これが本当は誰のために
作られたのか。そしてその両者が、同一人物であることも。
瞬間、ノイッシュの中に、二つの選択肢が同時に浮かび上がった。
二つはしばらくせめぎ合い…やがて一つがもう一つを制した。
実際はわずかな時間だったのだが、ノイッシュには途方もなく
長い時間が経過したように感じされた。

「悪いが、受け取るわけにはいかない」
ノイッシュは、静かにフュリーの差し出した包みを押し戻した。
「えっ…」
「これは君が、誰かを想って作ったものなのだろう?
ならば受け取る資格があるのは、その人だけのはずだ」
ノイッシュの言葉にフュリーは目を見開き、それから再び俯いた。
「…でも……渡せないんです…。渡しちゃ、いけないんです…」
「フュリー。わたしの母はよく、木の実のたくさん入ったパイを焼いてくれたよ」
「…?」
唐突な話に、フュリーは疑問符が張り付いた顔をノイッシュに向ける。
「エスリン様はこの日は毎年早起きして、シグルド様やバイロン様にだけでなく、
わたしたちにも手づくりの焼き菓子や砂糖菓子を贈って下さった。
レンスターへ嫁がれてからも、ちゃんと馬車便で届けて下さって…
シグルド様はいたく感激されていたものさ」
「あの…?」
「今日は、“大切な人”に感謝の気持ちを届ける日…わたしは母からそう聞いたよ。
君もそのためにそれを作ったんだろう?
それなら、渡さない方がその人に失礼というものじゃないか」
ノイッシュは微笑んで、フュリーの肩をぽんと叩いた。
「あ…」

そんなこと、分かっていたはずなのに。
レヴィンへの想いを意識する余り、忘れていた。
レヴィンの家臣であり幼馴染でもあるという立場は、例え恋愛感情がなかったとしても、
この日に贈り物をする理由に充分成り得るのだ。
いつかは、この想いに決着をつけなければならないことは分かっている。
けれど今はまだ―――その時ではない。
ならばせめて、言えない気持ちをこめてこれを贈りたい。
ほんの少しでも喜んで欲しい。笑顔を見せて欲しい…。
フュリーは、深く暗い水底に沈んでいた心が、ふいに青く晴れ渡った
空へと解き放たれたような気がした。

「ありがとうございます、ノイッシュさん!」
フュリーは先ほどまでとは別人のような笑顔でノイッシュに礼を言うと、
深く一礼して走り去った。
フュリーの姿が見えなくなるまでは笑顔で見守っていたノイッシュは、
足音のこだまも完全に聞こえなくなった後、表情を暗くして胸元で拳を強く固めた。
―――情けない…一瞬でも、あれをそのまま受け取ってしまいそうに
なるなんて…!だが、これでいい…これで、いいんだ…―――


その夜。
与えられた自室の寝台の上で、ぼんやりと昼間の出来事を回想しながら
まどろみかけていたノイッシュは、控えめなノックの音で我に返った。
「誰だ!?」
こんな時間に訪ねてくるのはせいぜい酒瓶を持ったアレクかアーダンだろうと
思ったノイッシュの返事は、少し不機嫌そうに響いた。
「す、すみません…こんな時間に」
それに萎縮したような声がドアの向こうから返ってきて、ノイッシュは
思わずひっくり返りそうな勢いで飛び起きた。何しろその声は―――
「フュリー!?ど、どうしたんだい?」
あわただしくドアを開けると、やはりそこには少し俯いたフュリーが立っていた。
「いえ、あの…もしかしてお休み中でしたか?」
「いや、そんなことはない!起きていたさ、うん、起きていた!!」
ノイッシュが作り笑いをしながら少しオーバーな身振りを交えて答えると、
フュリーは「それなら良かったです」と、安堵したように微笑む。
「あの、今日はありがとうございました。ノイッシュさんのおかげで、
ちゃんと渡すことが出来ました」
ノイッシュはその言葉に胸が疼くのを感じたが、
悟られないように平静を装いながら微笑みを返す。
「…そうか。それは良かった」
「はい!」
レヴィンは、フュリーが一大決心をして差し出したものを「おっ、サンキュ」
などとあっさり受け取った。拍子抜けしながらも、目の前で食べて、誉め言葉と
笑顔をくれたことに胸がいっぱいになり、フュリーは涙が溢れそうになるのを
必死で抑えた。怖くて尋ねることは出来なかったけど、きっとレヴィンは
シルヴィアからの贈り物も受け取ったのだろう。とりわけ女性に優しいレヴィンが
その気持ちを無下にするとは考えられない。
シルヴィアのことをどう思っているのか…それはすごく気になるところだが、
今は考えるのはやめよう。レヴィンが自分からの贈り物を喜んでくれた、その喜びを
かみしめていたい。フュリーはそう思い、「ラーナ様もレヴィン様にお渡ししたいと
思っていらっしゃるはずですよ」と、さりげなく早くシレジアに戻って欲しいという
気持ちだけを伝えて、その場を立ち去った。
そしてその後、ノイッシュの言葉を再び思い出した。
―――今日は、大切な人に感謝の気持ちを伝える日…―――

フュリーは、両手で包み込むようにして持っていたものを、ノイッシュの前に差し出した。
「これ…よかったら、どうぞ」
「…え!?」
昼間見たものと同じ、リボンのかかった小さな袋。
「ノイッシュさんも、わたしの大切な人ですから。いつも剣や槍の鍛錬に
付き合ってくださったり、色々とお話を聞いてくださってありがとうございます!
今日の事だって、本当に…」
「わざわざわたしのために、作ってくれたのか…?」
「はい。それなら、受け取ってもらえますよね?」
フュリーは昼間、レヴィンのために作った菓子を渡そうとして断られたことを
思いだし、ばつが悪そうに苦笑する。
ノイッシュは、手を伸ばした。
この手で、今目の前にいる少女の肩を引き寄せ、強く抱き締めてしまいたい。
沸き起こる衝動と戦いながら、ノイッシュはフュリーのまっすぐな瞳を見つめる。
その純粋さが今は痛くて。視線を足元に落とした。
フュリーと自分の間にある、ほんの1歩ほどの距離。
―――この距離を保っている限り、わたしは君の良き友であり、
兄のような存在でいられる…―――
ふいに、衝動は霧散した。
「ありがとう、フュリー。嬉しいよ」
ノイッシュの手は、フュリーの差し出したものを包み込んだ。
フュリーの手に触れることもなく―――。

彼女には、既に心を寄せる相手がいる。
それを知りながら、惹かれてしまったのだから。
「…分かっていたはずだろう…?」
再び一人になったノイッシュは、自嘲気味に呟く。
手にした包みの赤いリボンを解くと、ふわりと甘い香りが広がり、
まだぬくもりの残るクッキーが姿を現した。
ひとつを取り出して、その端をかじる。
それは、色も、形も、焼き具合も、甘味を少し抑えた優しい味も、
非の打ち所がないものだったが。
ノイッシュにはほんの少し、苦味を伴って感じられた。

(07/2/14)


完全な一方通行話ですね…(汗)
この話ではノイッシュがちょっと哀れですが、わたしの中でノイフュリは
固定!なので、ちゃんと報われる日は来ます(笑)
この翌年にはきっと本命がもらえるはず…頑張れノイッシュさん。
フュリーは家庭的なイメージがあるので、お菓子作りもうまいんだろうなぁと妄想してみましたv


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