Alive(1)

「それじゃぁ…気をつけるんだぞ」
「大丈夫よ。この子を危険にさらすような真似は、絶対にしないわ」
「君の方も、だよ」
「…はい、分かってます。さぁ、いい子ね。行きましょう、フィー」
フュリーは胸に抱いた、未だ泣き止まぬ我が子に優しく語り掛けると、
布製の紐で自分の背中と厚い産着にくるんだ小さないとし子とを
しっかりと結びつけた。
主の姿をみとめ、久々の活躍を喜ぶかのように小さくいなないた愛馬の
鼻先を優しくなでてやってから、その背に軽やかな身のこなしで飛び乗る。
実際には1年ぶりぐらいなのだが、もう何年も乗っていなかった気がする。
懐かしく柔らかい感触にしばらく浸っていたい気持ちもあったが、
今はそんな場合ではない。軽く腹を蹴って促すと、天馬は純白の翼を広げた。
見る間に、不安そうな表情でこちらを見上げている夫と、その腕に抱かれた
もう一人の我が子の姿が眼下に遠ざかってゆく。


生まれて間もない娘のフィーが、突然泣き出した。
あらゆる原因を考え、思いつく限りの手を尽くしたものの、一向に泣き止む気配はない。
困り果てたフュリーと夫のノイシュは、もしやフィーが何かの病に冒されたのではないか
との不安にかられた。ここはシレジアの辺境の山奥。一番近くの村へ行くにも徒歩ならば
半日ほどもかかる。だが、抵抗力の弱い赤ん坊のこと、もし不安が的中しているとすれば
一刻の猶予も許されない。そこでかつて天馬騎士として名を馳せたフュリーは、久々に
愛馬に跨ることを思い立った。ペガサスの翼ならば、ほどなくして医者の元へ我が子を
運ぶことが出来る。しかし、ノイッシュはその案に渋い顔をした。
帝国側から見ればフュリーもノイッシュも"反乱軍の生き残り"であり、見つかれば
即座に命を狙われる身だ。もちろん、二人の子供にも容赦はされないだろう。
だからこうして隠れ住んでいるのだ。
「でも、フィーにもしものことがあったら…!大丈夫、何があっても
絶対にフィーを守るわ!だからお願い、行かせて!!」
熱心に頼むフュリーに、ノイッシュは逡巡した。
本来ならば、自分が行ってやりたい。だが、いかにノイッシュが馬術に長けた
騎士であったとはいえ、地上の馬と天馬では勝手が違うし、仮にどうにか扱えたとしても
『シレジア四天馬騎士』の一人にまで数えられた一流の乗り手である妻より上手く
天馬を駆る自信はなかった。
「フィーだけじゃ駄目だ」
根負けしたように、ノイッシュは大きなため息をつく。
「…え?」
「フュリー、君自身の身も、ちゃんと守るんだぞ」
「ノイッシュ……ありがとう!はい、約束します!!」


「気持ちいい…」
フュリーはひとりごちた。
バーハラの悲劇から1年余り。かつては一日の半分以上を天馬の背中で
過ごしたことも少なくなかったフュリーだが、ずっと身重だったこともあり、
フィーを無事産んでからも帝国軍に見つかる危険を考え、何より
そんな気分にもなれず、あの日以来一度も天馬に跨ってはいなかった。
だが、やはりフュリーにとって空は特別な場所なのだ。
「マーニャ姉様に叱られた時や、ディートバやパメラにいじめられた時…
よく泣きながらペガサスに乗って、空に逃げてたっけ…」
『泣き虫フュリー』とあだ名された幼い頃の自分を思い出し、苦笑する。
青く澄み渡った空を、全身に風を受けて駆け巡るうちに涙も乾いたものだ。
「…!?フィー?」
フュリーの意識を現実に引き戻したのは、我が子のはしゃぐ声だった。
声が枯れるのではないかというほどに泣き続けいたはずなのに、
今背中から聞こえてくるのは痛ましい泣き声ではなく、
いつも天使のような微笑を見せる時に発する笑い声だ。
「これは…どういうこと…?」
手足をばたつかせて喜びを表現しているかのようなフィーを振り返りながら、
フュリーは困惑した。様子を見ようとしばらく旋回してみたが、フィーが再び
泣き出す様子はない。それどころか、ますます嬉しそうに笑い声を上げるのだ。
――まさか、空を飛びたいと訴えていたのかしら…――
本当にまさかと思いながらも、娘が喜んでいる姿を見ていると
フュリーの顔も自然とほころぶ。
「あなたも、空が好きなの?フィー」
応えるように、フィーはひときわ高い笑い声をあげた。
「よし!じゃあ、もっとお散歩しましょうか♪」
フュリーが手綱を引くと、天馬は一声鳴いて大きく羽ばたき、
周囲に真っ白な羽を舞わせた。

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