夕空の想い〔前編〕


薬草を煎じていた時、突然テントに人が転がり込んできたので
ラナは驚いて思わず肩を震わせた。
「くっ…ラナ君…頼む……」
振り向くと、腕の傷をハンカチで抑えたヨハンが膝を突いていた。
白いハンカチを無残に染めた血を見たラナは、慌てて脇に置いてあった
リライブの杖を手に取り立ち上がろうとしたが、傷がそれほど深いものでは
ないことを判断すると、小さなため息と共に呟いた。
「…またヨハンさんですか…」
「ま、またとは何だね!!いいから、早く治してくれたまえ!」
実際、こうしてヨハンがラナに傷の回復を頼むのは初めてではない。
むしろ、ほぼ日常的なことだった。
「ヨハンさんて、見た目は強そうなのに……意外と打たれ弱いんですね」
「な…何だと…!?」
年下の、見るからに大人しそうな少女に手厳しい一言を放たれ、
ヨハンは驚きと腹立ちに傷の痛みを一瞬忘れた。
「わたしにこんなことを言われて悔しいですか?そう思うのなら、
なるべく怪我をしないように自分の身を守ることも考えてください」
ラナはその様子にひるむこともなく冷静に続け、立ち上がると清潔な布を
手桶に汲んだ水に浸した。そしてヨハンの腕を取ると、丁寧に傷口の周りを拭き始めた。
「……」
ヨハンは不機嫌そうに押し黙ったままだった。
「…この傷…剣で斬られたものですね。ヨハンさん、貴方は斧使いだから
剣士相手の戦いは不利、極力避けるようにとセリス様にも言われたでしょう?」
「そ、それは…そうだが…しかし、それでもやむを得ず戦わねばならない
場合もあるだろう!?」
言われっぱなしの屈辱に耐えかねて反論するヨハン。だが、
「では、この傷を受けたのはその“やむを得ない場合”だったからなのですか?」
「……っ…!!」
返す言葉を失ってしまう。実際、彼が傷を受けたのは、無謀にも自ら
剣を操る敵に突進していったためだったのだ。
「……敵を倒す術を持たない君に何が分かる!!」
ラナの言うことは正論だと分かっていた。
だが、苛立ちを抑えきれず、ヨハンは叫んでいた。
「傷を治すのが、君の役目だろう!!怪我をする者がいなくなれば、
君は軍においてただのお荷物に……!!」
そこまで口にして、ヨハンは我に返った。
感情に任せて酷いことを言ってしまった……
恐る恐る、ラナの顔を見ると、彼女は俯いていた。
「あ……その…」
「……それでも」
謝罪するべく口を開こうとすると、ラナの呟きが遮った。
「それでもわたしは…誰も怪我をしない方がいいと、思ってます…」
顔を上げたラナは、少し寂しそうな力ない微笑を浮かべていた。
それでも瞳には、確かな光を宿して。

ラナは血を拭き取った傷口にリライブの杖をかざすと短く詠唱した。
温かい光に包まれた傷は見る間に塞がってゆき、同時に痛みも薄れていった。
何度見ても不思議なものだと、ヨハンはその様子をじっと見ながら思っていた。
「…終わりました」
「あ、ああ…ありがとう」
捲くっていた袖を元に戻しながら少しばつが悪そうにヨハンが礼を言うと、
「いいえ……さっきは失礼なことを言ってすみませんでした」
逆にラナに頭を下げられ、ヨハンは慌てた。
「いや、それはわたしの台詞だ!本当に…すまなかった」
「いいんです、気にしてはいません。ヨハンさんの言ったこと、その通りだから…」
ラナはまた寂しげに微笑む。
「違う、そんなことはない!!…それより、君の言葉こそその通りだと思う。…だが…」
わずかに俯いたヨハンの拳が、強く固められる。
「相手が剣士だろうと…いや…剣士だからこそ、わたしの斧で…
倒さねばならないんだ!!そうでなければ…」
「えっ…?」
「そうでなければわたしは…いつまでたってもシャナン王子を超えられない…」
苦い表情で搾り出されたヨハンの呟きに、ラナははっとした。
「ヨハンさん…!」
ヨハンが、剣士ラクチェに想いを寄せていることは軍に所属する誰もが知っていた。
ヨハンはその想いを隠そうとはしなかったし、むしろ人前だろうとラクチェに対して
「愛してる」などと臆面もなく口にし、いくら突き放されてもひるむことなく
アプローチし続けている。だが、ラクチェの幼馴染であり親友でもあるラナは知っていた。
ラクチェは幼い頃から、従兄に当たるイザークの王子――そして剣聖オードの血をひく
一流の剣士でもある、シャナンに憧れを抱いているということを。

ラクチェに付きまとうヨハンはまるで周囲が見えていないように思えた。
だから、きっとラクチェのシャナンへの気持ちにも気づいていないのだろうと
ラナを含むラクチェの想いを知る者たちは一様に考えていた。
だが…実際はそうではなかったのだ。
「…知ってたんですか……ラクチェの…」
「…愛する人の気持ちが誰に向いているのかなんて、分からないはずないだろう?」
苦笑しながらヨハンがこぼした言葉に、ラナは胸を締め付けられるような痛みを覚えた。
ヨハンは自分がラクチェの目に映っていないことを分かっていて、苦しみを抱えながらも
道化者を演じていたことを知ったからというだけではない。
脳裏に浮かんだのだ。ラナ自身が、愛する者の顔が。本当は戦いにまるで向かないのに、
解放軍のリーダーとして立ち上がらざるを得なかった…穏やかで優しい笑顔の幼馴染が。
同時に、触れれば折れてしまいそうなほどはかなげな雰囲気をもつ、銀の髪の少女の顔も
浮かんでくる。頭の中で二人は寄り添い、微笑みあう。
ラナは静かに目を閉じて、それを打ち消した。
「ヨハンさんは、すごいですね…わたしには、分かりません…」
「君にも愛する人がいるんだね?」
小さな呟きを聞きとめたヨハンに尋ねられ、ラナはかあっと紅くなる。
だが、ヨハンの気持ちを聞いておいて自分だけ隠すのは卑怯な気がして、
少しためらった後…頷いた。
「…そうか」
ヨハンはそれが誰なのかと尋ねることはしなかった。
その気使いが、ラナには嬉しかった。
「なぁに、わたしは諦めないさ。いつか必ず、ラクチェの気持ちをわたしの方に向けてみせる!
…まぁ、そのために無謀な戦い方をするのは、今後なるべく避けるつもりだよ。
また君に叱られてしまうからね」
わざとおどけた調子でそう言うと、ヨハンは片目をつぶって見せた。
「ヨハンさん…」
「だから、君も愛を勝ち取るために頑張るんだ。大丈夫、自信を持ちたまえ!
君は魅力的な女性だよ。…ラクチェの次にね」
ラナは思わず吹き出してしまう。
「ふふ…最高の誉め言葉ですね。ありがとう、ヨハンさん…」
お調子者で、考えもなく無茶な戦いをする困り者だとどこか思っていたヨハンの
印象が変わっていくのを、ラナは心地よく感じていた。



翌日の戦闘は激しさを増し、ラナも戦場へ出て後方で怪我人を治療することに追われた。
ようやく一息ついたところで、ラナは傷を拭くための水を汲みに川へと向かった。
剣戟の音を遠くに聞きながら、手桶を川の流れに浸す。
―――早く戦いのない世の中になってほしい…そうでなければ、人々の…そして
セリス様の苦しみも終わらない…―――
心の中で呟き、重くなった手桶を引き上げて立ち上がる。
引き返そうと振り向いた瞬間、ラナは全身を硬直させた。
「へへ…お前、解放軍のシスターだな?」
「あ……!」
そこには、帝国軍の鎧をまとった兵士が立っていたのだ。
鋭い輝きを放つ剣の切っ先と共に、ラナを見据えていた。
「シスターといえども解放軍の一員…殺ればそれなりの報酬が出るはずだ。
悪く思うなよ…死んでもらうぜ!!」
「!!」
反射的にラナは、水で満たされた手桶を帝国兵に投げつけていた。
「わぷっ…てめ、何しやがる!!」
帝国兵がひるんだ隙にラナは走った。もと来た道を引き返そうとして、はっと足を止める。
―――こっちには、負傷した人たちがいる…見つかったら……!―――
そう思い直し、全く別の方角へと再び走り出した。だが、ほどなく体勢を立て直した帝国兵が
後を追ってくる。ラナは力の限り駆けたが、低い体力の限界が相手よりもずっと早く訪れてしまう。
それでも気力を振り絞り、足を前に前にと出すのだが、帝国兵との距離は徐々に縮まっていく。
「ふ…ふん!てこずらせやがって…だが、もう観念するんだな!!」
ついに帝国兵の手がラナの細い手首を捉えた。ラナはもはや、悲鳴をあげることも出来なくなっていた。
―――セリス…さま…―――
激しく息が上がり、目もかすむ中、脳裏に浮かぶのは愛しい人の顔だった。
『…ナ…ラナ…!』
声までもが聞こえた気がして、ラナはゆっくりと目を閉じた。
その声が自分の名前を呼んでくれた…そんな幻の中で死を迎えるのは
幸せかもしれない…そう思いながら。
「ラナーーッ!!」
声は幻にしてはあまりにも大きく響き、ラナは再び目を開けた。
―――セリス様…!!―――
そこに見たのは、生まれた時から共に過ごしてきた中でも一度も目にしたことのない
鬼気迫る形相をしたセリスが、剣を構えながらまっすぐこちらへかけてくる姿だった。
「ひ、ひぃぃ!!」
ラナを捕らえていた帝国兵はそのあまりの迫力にひるみ、思わずその手を放した。
ラナはその一瞬に、わずかな気力を振り絞って兵から離れる。
それを確認したセリスは次の瞬間高く跳躍し、兵の肩からわき腹にかけて
剣を振り降ろした。
ゆっくりと倒れてゆく帝国兵の姿を見ながら、ラナは意識を手放していった…。

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